インタビュー

アトリエ・ウーフ、酒谷佳子氏インタビュー

2020年01月10日 (金)

京都市山科にて絵画教室を主宰する酒谷佳子氏。1986年の設立以来の教室の活動についてお聞きした。

──今日はアトリエ・ウーフの立ち上げから、一連の流れを聞いていければと思っています。

私の作ったこの本を読んで頂いたんですね、「アトリエ・ウーフものがたり」(*注1)。

──はい、なぜかうちのギャラリーにありまして。けっこう貴重な本ですよね。文章と資料できちんと記録を残されている。

そうそう、当時のことまでは全部そこに書いてあるんですよ。今はパソコンで編集できるけど、当時は大変やったんです。コピーとったりなんやしながらのまったく手作りで、500部ぐらい作って全部なくなったんとちゃうかな。生徒さんにあげるように作ったんです。展覧会に出している人たちの記念になるように。今やったらもっと上手くできる人もいるだろうけど、手作り感の良さですよね。

──そうですよね、読み物としても資料としても魅力的です。
まず面白いと思ったのが、教室を始めたのは知り合いの子どもさんが絵画教室を断られたのがきっかけだったとか。それで現在までずっと続いているんですね。


そうなんです、わりと安易(笑)。その子、まだ来てますしね。その子のお母さんが私の同級生だったんですが、近くの絵画教室にいったら、そういう子を受け入れるのをためらわはったんかな、私が大学生の時にバイトで児童画教室を手伝っていたのを知っていたので、絵画教室をやらないかって声をかけてくれたんです。それがきっかけで、その子を中心に6人ぐらい、半数は障害を持っている子達だったんですけど、とても小さなところでスタートしたんですね。最初からきている子たちとは、もう33、4年の付き合いですね。

──教室の場所の遍歴もすごく面白かったです。

まず場所を探さないとと思って、近くに住んでおられた小学校の先生に相談に行ったんです。当時、別学級にするか一緒の学級にするかというのでいろいろ議論があった時期で、「障害児を普通学級へ」という活動をされていた先生なんですが、相談にいったら、その方は自分の持ち物であるアパートに住まわれていたんですけど、「うちのアパートの空いている部屋を使いなさい」って言ってくれて。そこは一年ぐらいで取り壊される予定やったんやけど、それがスタートだったんです。

──じゃあ、普通の住居用のアパートだったんですね。

そうそう、二部屋くらいのね。汚してもいいってことで。最後そこを取り壊す時には、壁とか襖に好きなだけ絵を描かせてもらったり。面白かったですよ。
そのあと、幼稚園の遊戯室を借りたりしながら、いろいろ場所を探していて、近くのお寺を見つけたんですね。東本願寺の別院で、お習字やらやってはるいうのを聞いたので、飛び込みで「貸してください」って言いに行って。私も若かったし怖いもの知らずで(笑)。そこでは貸してもらえたのが廊下なんです。本堂の周りの。

──けっこう広い廊下だったんですか?

そう、多少雨が降っても大丈夫なぐらいの広さ。「廊下やったら使ってもいい、週に一回シートを敷いてやるんやったらやってもいい」って言ってもらって。机がないのでブルーシートを敷いて床で描いてでしたが、子供たちも小学生やったしみんなすごい楽しんでやってました。雨の時も雫をよけたりしながら。

──描く内容は割と自由だったのですか?

そう。最初はテーマを考えていたんやけど、ぜんぜん揃わないのでもう好きでいいやって感じになって。ウサギやったらウサギばっかり描いている子もいるし。学生の頃に幼稚園でやってた時は、助手として先生についてやってたので、カリキュラムを作成してその通りやっていたんですけど、同じようにやろうとしても全然できない。障害があるないに関わらず子供はみんなバラバラなので、もうそれはやめてしまった。まあ、漠然と春はお花描こうとか雨降ったら雨描こうとか、そんないい加減なアレはあったけど。でも、原則的には自由ですね。

──この時は毎回作品は持って帰っていたのですか?

この当時は一人ずつ自分のスケッチブックに描いていたので預かって持って帰ったりしてましたね。それが、だんだんお寺倉庫にすみません、って置かせてもらうようになったりして、だんだん厚かましくなってきた(笑)。

──お寺は結局どのくらい使われていたんですか?

どれくらいだろう、うーん、四年ぐらいかな。
その後、実家の倉庫やった場所を改装して使おうってことになって。それからは、画材やキャンバスは置いとけるし、油絵もできるようになったんです。宇仁さん(宇仁英宏、当アーカイブ収録作家)なんて、油絵になってからぐっと良くなったしね。

──宇仁さん、油絵を始める以前はそんなに絵に集中できなかったとか。

お寺でやってた頃は、もうわるいことばっかり(笑)。絵が画用紙の中に収まらへんし、描いている間にどこかに行っちゃったりして。お寺なので、どこでも隠れるところがあるから。油絵をやりだしてからは、ぐっと良くなった。大きくて、粘ってやるのが向いてたんでしょうね。この当時から、宇佐美さん、大河内さん、あと何人か油絵の人いるんですけど、その3人は未だにしっかり描いてはりますね。油絵はやっぱり根気もいるし、その場だけというわけにもいかないし。

──その時代の世間では、障害のある方たちの表現をめぐる活動はどんな感じだったでしょうか。

その頃に、たんぽぽの家がエイブルアート近畿という活動を始めて、続いていろんな活動が出てきた頃なんです。私が教室を始めた後ぐらいじゃないでしょうか。私はそういった理念とか一切なしに、普通のアトリエとしてやってたんですけど。

──京都でいうとみずのき絵画教室とかあったと思うんですけど、

そうそう、みずのき寮の絵画教室がたぶん最初ですね。

──その時代、他には参考になるような活動をしていたところはありましたか?

障害を持つ人の作品が、アール・ブリュットとかアウトサイダーアートとかという言い方をされだして、私もそういう催しで、東京やらいろんなとこ行きました。服部正(*注2)さんや、すずかけ絵画クラブのはたよしこさん(*注3)にお会いしたり。なんといっても、うちのアトリエの絵を京都のとっておきの芸術祭に出した時に、ほとんどみずのき寮の西垣先生(*注4)が賞に選んでくださって、「教えてはダメですよ、黙って見守っていなさい」と言われて、「ああ、こういうやり方で良かったのかな」と思ってありがたかったですね。

──あと、資料をみていると日下部美術教室(*注5)とも一緒に展覧会をやられたりしていますよね。京都では、すこし似た活動をされていたのかなと

なんや、東のウーフと西の日下部教室とか言われてたらしいけど(笑)。日下部教室はうちと違ってすごい大きいしね。ご自身も作家さんやし。

──福祉施設ではなく、絵画教室として障害ある人もない人も受け入れてっていうとこでは共通点はあるのかなと。

そうですね。日下部さんもフラットであんまり構えてらっしゃらないような方なので。ちゃんと福祉を学んだ人というのは、逆に行き詰まることもあるんじゃないのかな。私はあくまでも絵の方から近づいたので。だから、いろいろご家庭の事情などがあっても、そちらまでは踏み込まないようにして。私の役目は、こういう空間があって楽しんで絵を描いていただくというのが基本だと思っています。
当時、作業所とかだったら、きちっとしたことができるための訓練のために描くとか粘土で作るとか、教室を始めた初期に言われたこともあるけど、そんなのは一切考えてなくて、むしろストレス発散のためというか。日常生活では大変やろうけど、絵の中では暴れてもらったり、同じ色ばっかりとか同じものばっかり描いてても、よしとしていましたね。
お家のひとも、最初は半信半疑というか。絵に関心ある人ばかりじゃないしね。でも、展覧会やらやって、そうして認めてくれはって。最初、ウチは山科の西友のギャラリーで毎年やっててね、そしたら、一般のお買い物の人がいっぱいきはって、初めて、そういう絵にも触れるわけ。それで「ええー、この絵!」って。やっぱり強烈なものがあるんでしょうね、そういうのだけでもいいかなって思ってました。まったくの地元の方たちのそういうところから、なんとなく広がっていけばと。

──障害のある子とない子を同時に見せるわけで、その情報の見せ方に気を使われたとか。

そう。名前は書くんですけどね、同じ二年生となった時に、どういう風にしたものだろうとかね。だから、学年とか年齢は書かなかったんと違うかな。でも、たいてい目立つのでお客さんは聞かはりますね、いくつの方ですかって。そのインパクトと言う意味では強いと思います。
あと、それはね、私のポリシーとか言うよりも、おうちの方に聞きましたね。特に新聞に出る場合、やっぱり記者の人たちは、障害のあるということを前面に出さはるしね、もともと家族の方っていうのは葛藤があるだろうし、でもそれで吹っ切れたって人もあるしね。だから、取材はすごい気を使いましたね、当時は。今でこそ、わりとオープンになっているけど、二、三十年前でしょう。こうして記事に出るって言うのは、周囲にカミングアウトすることだし。今よりもっと偏見もあっただろうし、大変やったと思います。今でも取材の時は、作品中心になるべくしてねとか、その辺さらっと書いてねとか言うこともあります。

──しっかり当時の記事などの資料をのこされていますね。

すごく載せてもらっていたんですよ、最初のころは。何かすると取材がきて。

──やっぱりそれだけこういった活動はすくなかったんでしょうか。

どうなんでしょうね。それで目に止まって、京都文化博物館もやってみませんかと。2000年に「語りかける絵」っていう企画展をしました。栃木のもうひとつの美術館でも「西からきた妖精たち」という展示に参加したり。

──本の中で、「最初、障害のある人の絵は子供の絵と同じものだと思っていた、でも違うと気づいた」という記述がありました。その辺も聞きたいです。

障害があってもなくても、子供はやっぱり子供で成長期もあるし、絵として伸びていくのは10代ぐらいかな、そういうのは障害あるなしに関わらずやと思うんです。で、十年ぐらい経った頃、いわゆる健常者というか一般のお子さんは絵が大人っぽく変わっているんやけど、障害を持った人たちの絵は、なんかこう野生的なものが残ったままなんですよね。洗練されない、という言い方もへんだけれど、周りも気にしないし、学習してこう言う風に描くんだ、というのがないからそのままいくんです。でもね、その中でも成長はあるんです。描き慣れていく中で、色彩感覚も元々からだけじゃなくて身についていくし、自信もできてくるし、描くことの楽しさみたいなものもわかってくる。だから、最初の頃は日々発見でこちらも若いし初めてだし、向こうの絵に刺激されるように楽しくやっていましたね。

──今、教室には大体どれぐらいの人数の方がいるのでしょうか?

会員としては、30人ぐらいいるんですけど、全員が毎回来るわけではなくて、日に10人ぐらいが入れ替わり立ち替わりくるんですね。毎週来る人もあれば、月1の人もある。教室は、毎週土曜日10時から16時ぐらいまで。昔は、高校生とか中学生が来てたので、19時20時まで帰らはらへんのね。マンガ読んでぐだぐだ喋ってたり、そんな場所にもしてたんです。この頃は、中学生になるとみんな忙しくなって来れなくなったけど。

──障害のある子とない子が一緒にやっているのが、いいなと思うのですが、それについて大変さだったりあるいは良いなと思う部分だったりはありますか?

最初の時から、ぜんぜん違和感なしというか。特にトラブルというのはないんですよね。ちっちゃい子もなんとなく、変わったお兄ちゃんやなぐらいは思っていると思うんですけど、誰も言わないし、そういうのはすごいなって思うんですよね。かといって別に親しくするわけでもなくて、なんとなく同じ空間にいるっていうだけで、和気あいあいとやっているわけでもない。その辺はこどもに任せています。
でも、物音。今、悩んでいるのは、小学一年生ぐらいの小さい子がわっと集まると、声は高いし動きは早いし、絵は描くんだけどなんかガチャガチャするんですよね。大きい人たちは、大きな音が苦手な人が多いんやけど、うるさいって言えないから、パニックになって絵を潰してしまったり。そういう時は、もう、ごめんって言って大きい人をギュってするしかない。しばらくしたら落ち着くんやけどね。かといって、子供達に来るなっていうのでもないしね。だから両方に「がまんしてな」って。でも、まあなんとかなるだろうと。
初めはね、年齢で分けようかと思って、子供は午前中、大きい人は午後とかしていたんやけど、ちっとも守ってくれない(笑)。でもそのあたりもアバウトやからやって来れたので。全てそうですね、大抵ゆるいから、やってこれているみたいなところがあります。
でも、小さい子は小さい子で大きくなっていくんですよね。小学二年生ぐらいまでが一番やんちゃで、遊び出したら止まらへんのやけど、もう一年もすれば、子供達の方でわかってくるんじゃないかなあとは思います。

*1 「アトリエ・ウーフものがたり」(発行:1999年、文・編集・発行:酒谷佳子)

*2 服部正氏。甲南大学文学部教授。アウトサイダー・アートやアール・ブリュット、障がい者の創作活動などについての研究や展覧会企画を行う。

*3 はたよしこ氏。絵本作家、「ボーダレス・アートギャラリーNO-MA」(近江八幡市)アートディレクター、すずかけ絵画クラブ主宰。

*4 西垣籌一(にしがき・ちゅういち)氏。1912〜2000。画家。京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)助教授(1943−1949年)のち高校教師を経て、1964年よりみずのき寮(現みずのき)で知的障害者に対する美術教育を実践した。

*5 日下部美術教室。画家・日下部直起氏主宰。1985年の創設以来、障害のあるなしに関わらず生徒を受け入れ活動している。

聞き手:今村遼佑、舩戸彩子 編集:今村遼佑 

Profile
作家プロフィール

  • 宇仁 英宏 UNI hidehiro

    中学生の時に、アトリエ・ウーフに入会、当時の絵は小さな画用紙には収まりきれず、切ったり貼ったりくっつけたりと立体的になり、やがて油絵で開花した。大胆な構図と、若々しくシュールな色づかい。壁のように絵具を何重にも塗り込めたマチエールが魅力的。現在もアトリエ・ウーフの同じ席で、マイペースに制作を続けている。